「クラウドの方が安い」は本当か
「オンプレミスは高い。クラウドに移行すればコスト削減になる」
この言説は、過去10年間のIT業界で半ば常識のように語られてきた。初期投資が不要で、月額課金で始められるクラウドSaaSは、確かに導入のハードルが低い。経営層への説明も「月額いくら」で済むため、稟議も通りやすい。
しかし、ここに落とし穴がある。
月額費用の「安さ」は、3年間の総所有コスト(TCO)で見ると逆転する。 それも、わずかな差ではない。50名規模の組織では、3年間で数百万円の差が生まれる。
本稿では、ファイル処理ツール(PDF変換・画像処理・AI処理等)を対象に、クラウドSaaSとオンプレミスの3年間TCOを詳細に比較する。数値はすべて公開情報に基づく試算であり、稟議書の添付資料としてそのまま活用できる精度を目指した。
TCO(総所有コスト)とは何か
TCOとは、ある製品やサービスを「所有」するために必要な、直接費用・間接費用のすべてを含めた総コストである。ライセンス費用だけでなく、導入費用、運用費用、教育費用、リスク費用、そして見落とされがちな機会費用まで含む。
TCOに含まれるコスト項目
| カテゴリ | クラウドSaaS | オンプレミス |
|---|---|---|
| ライセンス/ハードウェア | 月額・年額サブスクリプション | 端末購入費 |
| 導入 | アカウント設定、SSO連携 | 設置、ネットワーク構築、初期設定 |
| 運用 | 契約管理、アカウント管理 | 電気代、アップデート、保守 |
| 教育 | 操作研修、ツール切替時の再教育 | 操作研修(初回のみ) |
| セキュリティ/リスク | DPAレビュー、監査対応、サイバー保険 | 物理セキュリティ、バックアップ |
| 機会費用 | ベンダー値上げリスク、サービス終了リスク | なし(自社資産) |
重要なのは、ライセンス費用だけで比較しないこと。 隠れたコストまで含めて初めて、正しい意思決定ができる。
クラウドSaaSのコスト構造
直接費用: ライセンス料の積み上げ
業務で必要なファイル処理ツールをクラウドSaaSで揃えた場合の年間コストを試算する。
| ツール種別 | 代表的なSaaS | 年額/1ユーザー | 50名の年額 |
|---|---|---|---|
| PDF処理(変換・結合・圧縮・署名) | Adobe Acrobat Pro | 約23,760円 | 1,188,000円 |
| 画像処理(リサイズ・変換・圧縮) | Canva Pro相当 | 約12,000円 | 600,000円 |
| AI文書処理(OCR・要約・翻訳) | AI SaaS各種 | 約18,000円 | 900,000円 |
| 合計 | 約53,760円 | 2,688,000円 |
50名規模で年間約269万円。3年間で約807万円。これがライセンス費用だけの数字だ。
隠れたコスト: 見積書に載らない出費
クラウドSaaSには、ライセンス費用の見積書には記載されない追加コストが存在する。
| 隠れコスト項目 | 内容 | 年間概算 |
|---|---|---|
| DPA(データ処理契約)リーガルレビュー | 各SaaSベンダーとの契約内容を法務がレビュー。3サービス分 | 30〜50万円 |
| コンプライアンス監査対応 | 外部ツール利用状況の棚卸し・報告書作成 | 20〜40万円 |
| サイバー保険追加保険料 | 外部SaaS経由のデータ流出リスクに対する上乗せ | 15〜30万円 |
| SaaS契約管理工数 | 契約更新、アカウント追加削除、棚卸し | 10〜20万円(人件費) |
| ベンダーロックイン脱出コスト | データ移行、再教育(発生時) | 50〜100万円(発生時) |
| 合計(年間) | 75〜140万円 |
ライセンス費用269万円に隠れコスト約100万円を加えると、実質コストは年間約370万円。3年間で約1,100万円に膨らむ。
オンプレミスのコスト構造
初期投資
オンプレミス環境の構築に必要な初期費用を整理する。
| 項目 | 内容 | 費用 |
|---|---|---|
| 専用端末 | 小型ワークステーション(処理サーバー) | 50〜100万円 |
| 設置・構築 | ネットワーク設定、ソフトウェア導入、動作検証 | 20万円 |
| 初期教育 | 管理者向け研修、利用者向け説明会 | 10万円 |
| バックアップ環境 | 外付けストレージ、バックアップ設定 | 5万円 |
| 合計 | 85〜135万円 |
初期投資は100万円前後。この数字だけ見ると、クラウドSaaSの「初期費用ゼロ」と比較してハードルが高く感じる。しかし、これは一度きりの支出であることに留意すべきだ。
年間運用コスト
| 項目 | 内容 | 年額 |
|---|---|---|
| 電気代 | 小型ワークステーション24時間稼働 | 約3〜5万円 |
| ソフトウェアアップデート | セキュリティパッチ、機能更新 | 保守契約に含む |
| 保守サポート | 障害対応、技術サポート | 約5〜10万円 |
| バックアップ運用 | 定期バックアップ確認 | 管理者の通常業務内 |
| 合計 | 約8〜15万円 |
年間運用コストは約10万円。ユーザー数に関係なく固定費である点が、クラウドSaaSとの決定的な違いだ。
3年間TCO比較: 規模別の徹底試算
ここからが本稿の核心だ。10名・50名・100名の3つの規模で、3年間のTCOを詳細に比較する。
10名規模
| コスト項目 | クラウドSaaS | オンプレミス |
|---|---|---|
| 初期費用 | 0円 | 1,000,000円 |
| 年間ライセンス/運用費 ×3年 | 537,600円 ×3 = 1,612,800円 | 100,000円 ×3 = 300,000円 |
| 隠れコスト ×3年 | 400,000円 ×3 = 1,200,000円 | 0円 |
| 3年間TCO合計 | 2,812,800円 | 1,300,000円 |
| 月額換算(1名あたり) | 7,813円/月 | 3,611円/月 |
10名規模でも、3年間で約150万円の差が生まれる。
50名規模
| コスト項目 | クラウドSaaS | オンプレミス |
|---|---|---|
| 初期費用 | 0円 | 1,000,000円 |
| 年間ライセンス/運用費 ×3年 | 2,688,000円 ×3 = 8,064,000円 | 100,000円 ×3 = 300,000円 |
| 隠れコスト ×3年 | 1,000,000円 ×3 = 3,000,000円 | 0円 |
| 3年間TCO合計 | 11,064,000円 | 1,300,000円 |
| 月額換算(1名あたり) | 6,147円/月 | 722円/月 |
50名規模では3年間で約976万円の差。オンプレミスのTCOはクラウドの**約12%**に過ぎない。
100名規模
| コスト項目 | クラウドSaaS | オンプレミス |
|---|---|---|
| 初期費用 | 0円 | 1,200,000円(冗長構成) |
| 年間ライセンス/運用費 ×3年 | 5,376,000円 ×3 = 16,128,000円 | 150,000円 ×3 = 450,000円 |
| 隠れコスト ×3年 | 1,400,000円 ×3 = 4,200,000円 | 0円 |
| 3年間TCO合計 | 20,328,000円 | 1,650,000円 |
| 月額換算(1名あたり) | 5,647円/月 | 458円/月 |
100名規模では3年間で約1,868万円の差。月額換算で1名あたり約5,189円もの差が出る。
3規模の比較サマリー
| 規模 | クラウドSaaS(3年TCO) | オンプレミス(3年TCO) | 差額 | 削減率 |
|---|---|---|---|---|
| 10名 | 約281万円 | 約130万円 | 約151万円 | 54% |
| 50名 | 約1,106万円 | 約130万円 | 約976万円 | 88% |
| 100名 | 約2,033万円 | 約165万円 | 約1,868万円 | 92% |
ユーザー数が増えるほど、オンプレミスの優位性は拡大する。これは当然の構造だ。クラウドSaaSは「ユーザー数 × 単価」の変動費モデルであり、オンプレミスは「固定費 + 微小な変動費」のモデルだからだ。
損益分岐点の分析
「何名からオンプレミスの方が安くなるか」を明らかにする。
年間コストの損益分岐点
クラウドSaaSの年間コスト(ライセンス + 隠れコスト)とオンプレミスの年間コスト(初期費用の3年按分 + 運用費)が等しくなるユーザー数を算出する。
前提条件:
- クラウドSaaS: 1名あたり年額 53,760円 + 隠れコスト基礎額 40万円(10名まで固定)
- オンプレミス: 初期費用100万円の3年按分 333,333円 + 年間運用費 100,000円 = 年間433,333円
計算:
- クラウドの年間コスト = 53,760円 × N人 + 400,000円
- オンプレミスの年間コスト = 433,333円(固定)
- 53,760N + 400,000 = 433,333
- 53,760N = 33,333
- N = 0.6人
つまり、隠れコストを含めれば1名でもオンプレミスの方が安い計算になる。
ただし、隠れコストの発生額は組織の規模や業界によって大きく異なる。隠れコストを除外した純粋なライセンス費用のみで比較した場合の損益分岐点は以下の通りだ。
隠れコスト除外の場合:
- クラウドの年間コスト = 53,760円 × N人
- オンプレミスの年間コスト = 433,333円
- 53,760N = 433,333
- N = 約8名
8名以上の組織であれば、ライセンス費用だけの比較でもオンプレミスが有利になる。
数値化しにくいリスクコスト
TCOの定量比較には含めなかったが、意思決定において無視できない要素がある。データ漏洩が発生した場合の損害額だ。
情報漏洩の平均被害額
IBM Security「Cost of a Data Breach Report 2024」によれば、情報漏洩1件あたりの平均被害額は**488万ドル(約7.3億円)**である。
| 指標 | 数値 | 出典 |
|---|---|---|
| 1件あたり平均被害額 | 488万ドル(約7.3億円) | IBM 2024 |
| 検知までの平均日数 | 204日 | IBM 2024 |
| 封じ込めまでの平均日数 | 73日 | IBM 2024 |
| 日本国内の平均被害額 | 約6.3億円 | IBM 2024(国別データ) |
| 医療業界の平均被害額 | 約14.6億円(業界最高) | IBM 2024 |
クラウドSaaSを利用する場合、データは外部サーバーに送信される。そのサーバーがサイバー攻撃を受ければ、自社のデータも流出する。オンプレミス環境であれば、データは社内ネットワークから出ないため、外部経由の漏洩リスクは構造的に排除される。
リスクの期待値計算
仮に、クラウドSaaS経由でのデータ漏洩確率を年間0.1%(1,000社に1社)と仮定した場合。
- リスクの期待値 = 7.3億円 × 0.1% = 年間73万円
- 3年間 = 219万円
この金額をTCOに加算すると、クラウドSaaSの実質コストはさらに上昇する。漏洩確率を0.5%(200社に1社)と見積もれば、期待値は3年間で1,095万円にのぼる。
注意: これは期待値計算であり、「73万円の損失が確実に発生する」という意味ではない。しかし、1件発生すれば7.3億円の損害が生じるリスクを「コストゼロ」と見なすのは、経営判断として適切ではない。
見落とされがちな定性的メリット
コストだけではない。オンプレミス環境には、数値に表れにくい以下のメリットがある。
1. ベンダーロックインの回避
クラウドSaaSは、ベンダーが値上げしても乗り換えコスト(データ移行、再教育)が大きいため、実質的に値上げを受け入れざるを得ない。実際、大手SaaSベンダーの年間値上げ率は5〜15%に達するケースもある。オンプレミスは自社資産のため、この拘束を受けない。
2. サービス終了リスクの排除
クラウドSaaSベンダーが事業撤退・サービス終了した場合、代替手段の確保に追われることになる。オンプレミスの場合、既存環境は引き続き稼働し、移行を自社のペースで進められる。
3. ネットワーク非依存
クラウドSaaSはインターネット接続が前提であり、回線障害時には業務が停止する。オンプレミスは社内ネットワークのみで動作するため、外部回線の影響を受けない。
4. 監査対応の容易さ
データの所在が自社内に限定されるため、「このデータはどこに保存されているか」という監査での質問に対し、明確に回答できる。クラウドSaaSの場合、ベンダーのデータセンターの所在地、バックアップの保存先、データの越境転送の有無など、回答に必要な情報を自社だけでは揃えられないケースが多い。
稟議書に使える要約
本稿の分析結果を、稟議書に記載しやすい形で要約する。
提案要旨
現在利用中のクラウドSaaSファイル処理ツール群を、オンプレミスアプライアンスに置き換えることで、3年間で約976万円(50名規模の場合)のコスト削減が見込める。加えて、データの社外流出リスクを構造的に排除できるため、セキュリティ投資としても合理的である。
投資回収期間
| 規模 | オンプレミス初期投資 | 年間削減額 | 投資回収期間 |
|---|---|---|---|
| 10名 | 100万円 | 約50万円 | 約2年 |
| 50名 | 100万円 | 約325万円 | 約4ヶ月 |
| 100名 | 120万円 | 約623万円 | 約2ヶ月 |
50名規模であれば、初期投資は約4ヶ月で回収できる。
まとめ: 初期投資の「高さ」に惑わされない
クラウドSaaSとオンプレミスのTCO比較から、以下の結論が導かれる。
1. クラウドSaaSの「安さ」は見かけ上のものである。 ライセンス費用だけでなく、隠れコストとリスクコストを含めたTCOで評価すべきだ。
2. ユーザー数が増えるほど、オンプレミスの優位性は拡大する。 クラウドは変動費モデル、オンプレミスは固定費モデル。この構造の違いが、規模の拡大に伴い大きな差を生む。
3. 8名以上の組織であれば、オンプレミスが3年TCOで有利。 これはライセンス費用のみの比較であり、隠れコストやリスクコストを含めればさらに早い段階で逆転する。
4. コスト以外のメリットも無視できない。 ベンダーロックイン回避、サービス終了リスク排除、ネットワーク非依存、監査対応の容易さ。これらはTCOには表れないが、組織のレジリエンスに直結する。
初期投資の「高さ」に目を奪われて、3年間で数百万円から数千万円を余分に支払い続ける。そうした意思決定の誤りを避けるために、TCOという視点は不可欠だ。
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本記事のコスト試算は、2026年2月時点の公開価格情報および一般的な市場相場に基づく概算です。実際のコストは、組織の規模、業界、セキュリティ要件によって異なります。正確な見積もりについては個別にお問い合わせください。