「便利なツール、使いたいのに使えない」
デジタル化の波は、あらゆる業界に押し寄せている。PDFの変換、画像の加工、データの整形。こうした日常的なファイル処理を効率化するオンラインツールは、すでに数え切れないほど存在する。
しかし、世の中には**「データを社外に出してはいけない」業界**がある。
医療、法務、金融。これらの業界で働く実務担当者は、便利なオンラインツールの存在を知りながら、「使いたいのに使えない」というジレンマを日々抱えている。なぜなら、ほとんどのオンラインツールは、ファイルを外部サーバーにアップロードして処理する仕組みだからだ。
彼らは「ツール難民」とも呼べる存在だ。デジタル化から取り残されているわけではない。むしろ、デジタル化したいのに、規制やガイドラインが壁となって前に進めない。
本記事では、3つの業界それぞれの事情を掘り下げ、なぜこの問題が構造的に解決しにくいのかを整理する。
医療業界: 患者データという「最も重い情報」
ガイドラインが求めるもの
医療情報は、個人情報の中でも最も機微性が高いとされる。病歴、検査結果、処方内容、医療画像。これらは患者の生命と尊厳に直結する情報であり、その取り扱いには一般的な個人情報保護とは次元の異なる慎重さが求められる。
厚生労働省は「医療情報システムの安全管理に関するガイドライン(第6.0版)」を策定し、医療機関が遵守すべき情報セキュリティの基準を明確にしている。このガイドラインでは、医療情報の外部保存について、保存先の物理的な安全管理措置、アクセス制御、監査ログの保存など、極めて厳格な要件を定めている。
さらに、2023年4月から施行された改正医療法では、医療情報システムに対するサイバーセキュリティ対策が管理者の義務として明文化された。医療機関にとって、データの取り扱いは「できればやった方がいい」ではなく、「やらなければ法令違反になる」レベルの話なのだ。
現場で起きていること
しかし現実の医療現場では、デジタル化と情報保護のはざまで、非効率な作業が日常的に行われている。
たとえば、学会発表のために患者の画像データを加工する場面。匿名化処理を施した上で、画像のリサイズやフォーマット変換が必要になる。一般的なオフィスワーカーならオンラインツールで30秒もあれば終わる作業だ。しかし医療機関では、患者画像を外部サーバーに送信することは許されない。
結果として何が起きるか。
USBメモリで画像を持ち出し、院内の専用端末で処理する。 あるいは、Excelの図形機能で無理やり画像を加工する。 情報セキュリティの観点からは正しい対応だが、業務効率という観点からは大きな損失が生まれている。
ある地方の中規模病院では、医事課の職員が毎月の統計レポート作成に丸一日を費やしているという。データの集計、グラフの作成、PDFへの変換。これらの作業を効率化できるツールは世の中にいくらでもあるが、患者情報を含むデータを外部に出せない以上、手作業に頼らざるを得ない。
倫理的な壁
技術的・法的な制約に加えて、医療業界には独自の倫理的な壁がある。
「患者さんの画像を外部のサーバーに送るなんて、考えられない」
これは多くの医療従事者が抱く素朴な感覚だ。たとえ利用規約で「データは即座に削除される」と書かれていても、患者との信頼関係を考えれば、そのリスクを取ることはできない。法律やガイドラインを持ち出すまでもなく、医療者としての職業倫理がそれを許さないのだ。
法務業界: 守秘義務という絶対的な壁
弁護士法が定める守秘義務
弁護士の守秘義務は、弁護士法第23条で定められた法的義務だ。
弁護士又は弁護士であつた者は、その職務上知り得た秘密を保持する権利を有し、義務を負う。
この「職務上知り得た秘密」には、クライアントから預かった契約書、訴訟資料、証拠物件、さらには法律相談の内容まで、業務を通じて知り得たあらゆる情報が含まれる。守秘義務違反は懲戒事由となり、弁護士としてのキャリアに致命的な打撃を与える。
日常業務とツールの乖離
法律事務所の日常業務では、意外なほど多くのファイル処理が発生する。
- 契約書のPDF変換: WordからPDFへの変換、複数ファイルの結合
- 証拠資料の画像処理: 写真のリサイズ、トリミング、匿名化
- 大量文書の整理: 数百ページの裁判記録のOCR処理
- 文書の電子署名: 印鑑画像の合成、電子押印
これらの作業一つひとつは、オンラインツールを使えば数秒で終わる。しかし、クライアントの機密情報を含むファイルを外部サーバーに送信することは、守秘義務の観点から容認できない。
大手と中小の格差
ここに、もう一つの問題がある。大手法律事務所と中小事務所のIT環境格差だ。
大手事務所では、専用のドキュメント管理システム、社内サーバー上のPDF処理ツール、セキュリティが確保されたファイル変換サービスなど、相応のIT投資を行っている。情報セキュリティの専任担当者がいて、利用可能なツールのホワイトリストを管理している事務所もある。
一方、弁護士1〜5名程度の小規模事務所ではどうか。IT専任担当者はいない。セキュリティポリシーも明文化されていないことが多い。しかし、守秘義務の重さは大手と変わらない。
その結果、中小事務所の弁護士は、個人の判断でツールの利用可否を決めることになる。多くの場合、リスクを避けるために「使わない」という選択をする。手作業で契約書のPDFを一つひとつ結合し、Excelで請求書を手打ちし、画像編集ソフトの使い方を必死に調べる。
「こんな作業に30分もかけている場合じゃないのに」
多くの弁護士が抱えるこの不満は、怠慢から生まれているのではない。守秘義務を真摯に守ろうとしているからこそ、生まれている不満なのだ。
金融業界: 規制と信頼のジレンマ
三重の規制構造
金融業界は、おそらく最も重層的な規制を受けている業界の一つだ。
第一層: 金融庁のガイドライン
金融庁は「金融分野におけるサイバーセキュリティに関するガイドライン」を通じて、金融機関に対し包括的なサイバーセキュリティ体制の構築を求めている。このガイドラインでは、システムリスク管理態勢の整備、データの機密性分類、外部委託先の管理など、広範な領域を対象としている。
第二層: FISC安全対策基準
FISC(金融情報システムセンター)が策定する「金融機関等コンピュータシステムの安全対策基準・解説書」は、金融業界における事実上の標準基準だ。技術基準、運用基準、設備基準の3つの観点から、金融システムの安全対策を詳細に規定している。外部クラウドサービスの利用に関しても、リスク評価や委託先管理の手順が明記されている。
第三層: 各社の内部規程
これらの上位基準を受けて、各金融機関は独自の内部規程を策定している。一般的に、金融機関のIT利用規程は他業界と比較して著しく厳格だ。「承認されたツール以外は使用禁止」というルールは珍しくない。
監査という見えない圧力
金融業界の特徴的な要素として、監査の存在がある。
金融庁検査、内部監査、外部監査。金融機関は定期的にこれらの監査を受ける。監査では、情報管理体制が適切に運用されているかが厳しくチェックされる。もし「承認されていない外部ツールにデータを送信していた」事実が発覚すれば、それは重大な指摘事項となる。
この監査の存在が、現場の萎縮を生んでいる面がある。新しいツールの導入を提案しても、「監査で指摘されるリスクがある」の一言で却下されてしまう。結果として、承認済みの限られたツールだけで業務を回すことになり、効率化の機会を逃している。
現場の実態
銀行の事務部門で働くAさん(仮名)はこう語る。
「月末の報告書作成では、50枚以上のExcelシートをPDFに変換して結合する作業があります。一枚ずつ手動で変換し、Adobe Acrobatで結合する。毎月3時間はかかります。世の中にはワンクリックでできるツールがあることは知っています。でも、顧客データを含むファイルを外部に送ることは絶対にできません」
証券会社のコンプライアンス部門では、大量の取引記録を画像化して保存する業務がある。画像のフォーマット変換やリサイズが頻繁に必要だが、取引情報は最も機密性の高いデータの一つであり、外部ツールの利用は論外だ。
保険会社では、代理店から送られてくる大量の書類(スキャンPDF)の整理に膨大な時間がかかっている。OCR処理やPDFの分割・結合ができれば大幅に効率化できるが、契約者情報を含む書類を外部に出すことはできない。
「ツール難民」が抱える3つの共通課題
業界は違えど、データを社外に出せない組織が抱える課題には共通したパターンがある。
1. 業務効率の構造的な低下
最も目に見える影響は、業務効率の低下だ。
オンラインツールで30秒あれば終わる作業に、手動で30分かかる。この差は一回だけなら大した問題ではない。しかし、これが毎日、毎週、毎月繰り返されると、膨大な時間の損失になる。
| 作業 | オンラインツール利用時 | 手動作業時 | 年間差(週1回として) |
|---|---|---|---|
| PDF 10ファイル結合 | 15秒 | 20分 | 約17時間 |
| 画像50枚のリサイズ | 30秒 | 1時間 | 約52時間 |
| 文書のOCR処理 | 1分 | 手入力2時間 | 約104時間 |
| レポートのフォーマット変換 | 10秒 | 15分 | 約13時間 |
年間で合計すると、一人あたり数百時間の生産性損失が発生している計算になる。これは中小規模の組織にとって、人件費に換算すれば数十万円から数百万円に相当するコストだ。
2. セキュリティと利便性のトレードオフ
「安全を取るか、便利を取るか」
この二者択一は、本来あるべき姿ではない。安全であり、かつ便利であることが理想だ。しかし現実には、セキュリティを優先すれば利便性が犠牲になり、利便性を優先すればセキュリティリスクが高まる。この構造的なトレードオフが、多くの組織を悩ませている。
特に問題なのは、このトレードオフが個人の判断に委ねられているケースだ。組織としての明確な基準がない場合、「このファイルは外部ツールで処理して大丈夫だろうか?」という判断を、現場の担当者が毎回行うことになる。これは心理的な負担であり、判断ミスのリスクでもある。
3. IT投資の偏り
データを社外に出せない業界では、IT予算の多くがセキュリティ対策に割り当てられている。ファイアウォール、侵入検知システム、暗号化、アクセス制御、ログ管理。これらは不可欠な投資だが、その分、業務効率化のためのツール導入に回せる予算が限られてしまう。
「セキュリティには毎年数千万円かけているのに、日常業務の効率化ツールには予算が下りない」
この嘆きは、3つの業界に共通して聞かれるものだ。セキュリティ投資は「事故が起きなかった」という消極的な成果しか見えにくいのに対し、業務効率化ツールは「時間短縮」という目に見える効果がある。にもかかわらず、予算配分はセキュリティに偏りがちだ。
もう一つの問題: シャドーITのリスク
ここで触れておかなければならないのが、シャドーITの問題だ。
いくらルールで「外部ツールの利用は禁止」と定めても、現場の負担が限界を超えれば、ルールを迂回する人が出てくる。個人のスマートフォンで書類を撮影し、個人アカウントのクラウドツールで処理する。あるいは、自宅のPCにファイルを持ち帰って作業する。
これらはすべてシャドーITであり、正規のルートよりもはるかに高いセキュリティリスクを生む。しかし、業務上の必要性がある以上、「やるな」と言うだけでは解決にならない。
シャドーITを根絶するために本当に必要なのは、監視の強化ではなく、「安全に使える代替手段」を提供することだ。現場が求めているのは、ルールを破ることではない。ルールを守りながら、効率的に仕事を終わらせる方法なのだ。
解決の方向性: 「使えない」から「安全に使える」へ
では、この問題をどう解決すればいいのか。
鍵となるのは、**「データが社外に出ない仕組みでツールを提供する」**という発想の転換だ。
従来のオンラインツールは、ファイルを外部サーバーに送信して処理する「クラウド型」が主流だった。これが規制業界での利用を困難にしていた。しかし、技術的には別のアプローチが可能だ。
アプローチ1: オンプレミス型ツール
ツールそのものを社内ネットワーク内に設置する方法。データは一切社外に出ない。外部のサーバーと通信する必要がないため、規制やガイドラインへの適合が格段に容易になる。
従来のオンプレミス型ソフトウェアは、導入や保守に専門知識が必要で、コストも高かった。しかし最近では、Dockerコンテナやアプライアンス型の提供形態により、導入のハードルは大きく下がっている。
アプローチ2: ブラウザ内完結型
WebAssemblyなどの技術を活用し、ブラウザ内ですべての処理を完結させる方法。ファイルがサーバーに送信されないため、クラウド型と同じ手軽さでありながら、データの外部流出リスクがない。
ただし、ブラウザ内処理にも限界がある。大規模なAI処理や、大量のファイルを一括処理するような場面では、サーバーの計算リソースが必要になるケースもある。
アプローチ3: 社内ネットワーク内で動くブラウザベースツール
上記2つのアプローチを組み合わせた方法。社内ネットワーク内にサーバーを設置し、ブラウザベースのインターフェースでツールを提供する。ユーザーにとっては通常のWebアプリケーションと変わらない操作感でありながら、データは社内ネットワークから一歩も外に出ない。
この方法であれば、医療機関のガイドライン、弁護士の守秘義務、金融機関の安全対策基準のいずれにも適合しやすい。社内のIT部門による管理も容易で、監査対応もスムーズだ。
まとめ: 規制は変えられない。だがツールは変えられる
医療、法務、金融。これらの業界における情報保護の規制は、患者、クライアント、顧客を守るために存在する。その規制自体を緩和すべきだとは思わない。
変えるべきは、ツール側のアーキテクチャだ。
「データを外に出してはいけないなら、ツールの方を中に入れればいい」
この発想の転換により、セキュリティと利便性のトレードオフを解消できる可能性がある。規制を遵守しながら、現場の業務効率を大幅に改善する。それが、これからの業務ツールに求められる設計思想だ。
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本記事は情報提供を目的として作成されたものであり、特定の法律・規制への適合を保証するものではありません。具体的な対応については、各業界の専門家にご相談ください。